放課後お手伝いでの一幕

「こんなことなら、早く帰っておけばよかったな」
「そう言わなくてもいいんじゃない? ジュース奢ってくれるって言ってたよ?」
「ジュース一本に見合う仕事じゃないって……」
「どうせ暇だったんだから、いいじゃん。お互いにさ」
「まぁ……ね」
 愚痴を垂れ流す勇とは対照的に、隣を歩く真柴真希穂は嬉しそうに答える。貧乏くじを引かせられた立場だというのに、よく前向きに捉えられるな、と化学の実験器具が入った箱を運びながら勇は感心していた。
 七時間目の授業が終わり、傍のグラウンドでは野球部とアメフト部が猛々しい声を上げながら練習に励む。ホームルームが終わってから約一時間が経過しているため、帰宅する生徒の数はまばらだ。今なら下校のラッシュに巻き込まれることなく家に帰ることができるのだが、残念ながら勇と真希穂は厄介な仕事を手伝わされているため、まだ学校を後にすることができなかった。
 ホームルーム終了後、勇達はしばらく教室に残り歓談に耽っていた。というのも、中高一貫であるこの学校は生徒の数も膨大であり、授業が終わってすぐに帰ろうとすると生徒の波に飲み込まれることになってしまうのだ。そのため、時間を潰そう考えた勇達の男子グループ、真希穂達女子グループはわざと帰宅の時間を遅らせようとしたのである。
 だが、今日に限ってはそれが間違いだったと反省せざるを得ない。
 時間を忘れて勇と真希穂達は談笑に花を咲かせていたが、その時教室に化学の教師である篠原が訪れ、仕事を頼みにきたのである。
 それは、実験棟の化学実験室に器具を運んで欲しいという簡単な肉体労働だった。だが、器具が置いてある第三校舎は離れた位置にあるため、五分、十分で終わる仕事ではなく、その場の生徒達は全員難色を示した。だが、教師の頼みとあっては断ることもできず、男子グループ、女子グループから一人ずつ選出することになった。そして最も平和的な解決手段であるジャンケンによって、勇と真希穂が不幸に選ばれてしまったのだった。
 余談ではあるが、その時に勝ち残った男子と女子の態度は如実に異なっていた。女子グループは皆が真希穂を気遣い手伝いを申し出たのだが、それではジャンケンで負けた自分が卑怯な気がする、と言って断る、という何とも美しい友情話が展開されていた。だが、男子グループは勇に一言だけ激励の言葉を残し、余計な仕事を回されては堪らない、とさっさと帰ってしまったのだ。中学校から付き合ってきた悪友達が自分に優しく手を差し伸べるなんて、それこそ微粒子のレベルで存在するか否かという希望ではあったのだが、予想通りの結果に、勇は重たいため息を漏らすだけだった。
 本当に自分が危機的状況に陥った場合は、きっと助けにきてくれる。今回の不運は取るに足らないことであるから、友人達は冗談の範疇で行ったことなのだ。と、そう思うことにする。きっとそうに違いない、と半ば言い聞かせるような形でそう願う。
 ただ、幸いだったのは同じ手伝いをしてくれたのが真希穂であるということだ。快活な性格をする彼女と一緒にいても沈黙が重くなることはない。そもそも、彼女が持つ話題が豊富なため、無言になることがなかった。もしも他の女の子がジャンケンに負けていたら、今頃更に陰鬱な気持ちで手伝いを行っていなければならなかっただろう。
「そんなに重たくない荷物ばっかりで助かるよね」
「俺はそうだけど、真柴は大変だったりしないか?」
「このくらい全然平気だよ。けど、数が多いけどね」
「無理せずやろうぜ。腰とかぶっ壊したら洒落にならんしな」
「だねー」
 何気ないやり取りをしながら、二人は両手でダンボールを抱えて実験器具を運ぶ。
 その時、グラウンドの方から耳を劈くような怒声が聞こえた。驚いて目をやると、ノックを行っている野球部顧問が、ミスをした生徒を怒鳴っているようだ。
 思わず勇は足を止めて、しばらく成り行きを見守る。ボールを取り損ねた生徒は頭を下げると、ノックは何事もなく再開される。
「どうしたの?」
「あ、いや……悪い。行こうか」
 お茶を濁すように勇は先を促した。ただ、急速に胸の中でもやもやとした嫌な気分が広がっていく。
「……あのさ、人が怒ったり怒鳴ったりするのはどうしてなんだろうな?」
「どうしたの、急に?」
 整理する前にそのまま疑問をぶつけたせいで、真希穂は困惑しているようだった。
「わ、悪い……全然頭で整理しないまま質問しちまった」
 勇は一度頭をリセットして、自分の抱いた疑問を分かりやすく並べ替えていく。
「さっき野球部の部員が監督に怒鳴られてたよな? ノックの時に落球したみたいだけどさ、あれって怒ったりする必要あるのかな?」
「試合であんなミスしたら良くないから、じゃないのかな? 私はずっと見てたわけじゃないけど、ぼーっとしてたりしてたんじゃない?」
「俺もさ、ふざけてたりとかしてる人には怒ってもいいと思うんだよ。けど、ミスをする人って必ずしもそういう人ばっかりじゃないだろ? 自分なりに集中して、全力で取り組んだ結果、ミスしちゃったって人もいると思うんだ」
「だね。人間、全部完璧って人はいないわけだし」
 こちらの言わんとしていることが少しずつ通じているらしく、真希穂も首肯する。
「もっと言うとさ、例えば数学とかも公式とか覚えても問題によっては解法が分からなくて解けなくなる時ってあるだろ? けど、それは仕方がないことっていうかさ……うーん、上手く言えないけど、それは怒るようなことじゃないと思うんだよな」
「あー……あはは、何か耳が痛くなってきたんだけど……」
「いや、別に真柴のことを言ってるわけじゃないから誤解しないでくれな」
 真希穂の表情に段々苦笑いが浮かび始めた。あくまで一例を挙げただけなのだが、どうやら真希穂に合致するような内容だったらしい。
「けど、何度言っても良くならない、とかそういう人には怒るのも必要なんじゃない?」
「そりゃ、まぁそうなんだ。けど真面目にやって人ってさ、ミスが分かったっていう時点で反省とかするだろ。次はこうしないようにしなきゃ、って意識するんだからさ。それを怒ったところで逆効果なんじゃないか?」
「でも先生が全員、私達が真面目にやってるのか、怠けてやってるのかなんて見分けがつかないんじゃない?」
「ま、そうなんだけどね……。俺の言ってることって間違ってるかな?」
「うーん……」
 しばらく考え込んだ真希穂の歩調が少しだけ遅くなる。先を行きそうになった勇は、真希穂に合わせて歩幅を小さくした。
「怒鳴ったりっていうのは、今後同じミスを繰り返さないように前もって意識付けをさせるって意味もあるんじゃないかな? 同じような状況になった時に、失敗を思い出すことができるように、さ」
「あー……うん、まぁそうだけどなぁ……」
「あ、やっぱ私の答えじゃ納得できない?」
 真希穂は勇の顔を覗き込んでくる。間違ったことを言っているわけではない、というのは理解できるのだが、どうにも心が晴れるには届かない。
「難しい問題だよね。結局勇が言いたいのって、褒められて伸びるタイプと叱られて伸びるタイプの人がいるってことでしょ?」
「平たく言えばそうなる、かな……」
「うーん……人それぞれ、って言っちゃうとそれまでだよねー」
 苦笑いを浮かべて、真希穂は先ほど怒鳴り声を上げていた野球部顧問に目をやる。
「俺はさ、ふざけてたり不真面目な人には怒るのも仕方ないと思うんだよ。けど、真面目にやってたけど失敗やミスしちゃった人には怒らない方がいいと思うんだよな。やっぱり怒られた人には少なからず苦手意識なもの持つじゃん? 時間が経っても、怒られたって記憶はそうそう忘れられないし」
「軽く注意された、程度だったらあんまり気にしないけど、結構ガミガミやられたら長い間覚えてるもんだよね」
「気持ち切り替えたりとか、みんながみんな上手くできるわけじゃないしさ。三十分前に怒られた先生に分からない問題を質問しに行くとか難しいだろ? また怒られるんじゃないか、って不安になって行きたくなくなるんだよな」
「その気持ちは分かるかも。小学校の時は音楽の先生がすごく怒る人で、なんかあんまり好きじゃなかったなー」
「それそれ。怒られるとさ、その先生のことが嫌いになったりしないか?」
「うん、あるある。悪いのがこっちだとしても、なんか嫌いになっちゃうよね」
 ぴったりと意見が一致したらしく、真希穂は嬉しそうな笑顔を見せた。
「今は私達は高校生だけど、これから就職とかして上司がガミガミ怒るようなタイプだったら困るよねー」
「そうだなぁ。結局のところ、そういう人って部下からも好かれなくなるし、どうにも俺には怒るっていうメリットが見つからないよ。すっげー損してるだけにしか思えないな」
「分かってるからそこまで怒らなくてもいいじゃん、って言い返したくなるよね。そんなことしたらもっと怒られるんだろうけどさ」
「俺みたいに考えてる人が沢山いてくれればいいんだけどさー……」
 思わず勇はため息を付いてしまった。真希穂は慰めるように、まぁいいことあるって、と言葉を掛けてくれた。
「……ところで、何で急にそんなこと訊いてきたの?」
「たまたま怒鳴り声が聞こえてきたから、ってのが理由だけどさ。俺さ、昔から怒られるのが嫌いだったから、なるべく怒られたりしないようにしてきたんだよ。けど、いざ何かで怒られた時って結構気にするタイプなんだ」
「分かる分かる。怒られてもすぐにケロっとしてる人って羨ましいよね」
「是非極意を伝授して欲しいもんだぜ、そういう人にはよ」
「あ、でもさ、スポーツとかだったら熱血指導とかで効果があるんじゃない? そんな野球の監督とかテレビで見たことあるよ? さすがに暴力はだめだけど、気合だー、ガッツーだ、とかってのは長期的に見たらいいんじゃないかな?」
「うーん……」
 再びフライの捕球練習で落球してしまったのか、顧問の怒鳴り声がグラウンドに響いた。それを見た真希穂が新しい捉え方を提示する。だが、勇は渋面を作るだけで同意することはしなかった。
「俺さ、テニススクールに通ってんだけどさ、もしもコーチがあの顧問みたいに怒鳴りまくる人だったら通うのやめてると思うぞ」
「怒られるのが苦手だから?」
「それもあるし、テニスっていうスポーツだからかもしれないけどさ。失敗して怒られても、できないことはできないんだからしょうがねーだろ、って思うな、多分」
「へー、そういうものなんだね。私はあんまりスポーツしないからよく分かんないけど」
「一流のプロになるんだったら、怒られたくらいでへこたれるメンタルを鍛えないといけないのかもしれないけど、別に俺はプロ目指してるわけじゃないしなぁ……」
「ままならないねー、世の中色々と」
 真希穂の笑顔が陰り、何となく雰囲気が重苦しくなったような気がした。こんな暗くなるような話題になるとは思ってもみなかった。
「や、あんまり深く考え込まないでくれよ。俺がそうってだけだからよ」
「でも、できれば解決したくない? 怒るような人ばっかりの世の中なんて嫌だしさ」
「解決策なんてあんのかな? さっき真柴が言ってたけど、人それぞれってやつだと思うし、どうにもならないような気がするぞ」
「いやいや、私達が歴史に名を刻むくらいのことをやっちゃうくらいの意気込みでさ!」
 と、鼻息を荒くしてやる気に満ちた表情を浮かべる真希穂だったが、それが徐々に萎んでいくのが見て取れた。そう簡単に答えが見つかるような問題ではないのだ。
「世の中っていうのは……社会っていうのは、世知辛いもんだね……やってらんなくなってきたよ!」
「やさぐれんなよ……」
「でも、結局私達が怒られ慣れるってことしか方法がなくなっちゃうじゃん。それって我慢とかストレスを溜め込むみたいで嫌だけどなー」
「そりゃそうなんだけど……」
 地球上に住む全人類の意識を変革させるような、そんな世界を支配し得る力を持った洗脳能力を持った人間でもなければ、勇と真希穂が懸念する事態が時を待たずして解決することはない。真希穂の言う通り、やはり自分達の精神力を鍛えるしか怒られた際に平穏を保つ術はないのかもしれない。
「世界も人ももっと優しくなればいいのにね」
「その優しさ、ってのが人によって違うから困ってんだよなぁ」
「じゃあ前もって言うようにしよう。自分は褒められて伸びるタイプなので、怒らないでください。怒られたらあなたのこと嫌いになります、みたいな」
「怒られる怒られない以前に、変な人だと思われるぞ……」
 それから実験棟に着くまで、勇と真希穂の議論は尽きることはなかった。
 けれど勿論答えが出ることはなく、人間は難しい生き物だ、という酷く曖昧な結論でひとまずの結論に落ち着いたのだった。

定食屋での一幕

「いらっしゃいませ!」
「あ……禁煙席、空いてますか?」
「禁煙席は奥のフロアになります、空いてるお席へどうぞ」
 やや年配の女性店員に対応され、勇は煙草の煙から逃げるように奥のフロアを目指す。今日は昼休みの会社員や郵便配達員の姿が多く、客の人数に比例して入り口付近に充満する紫煙も濃いように思えた。 
 奥の禁煙スペースは幾つも空席がある。今までは座敷席を好んで使っていた勇だったが、ここ最近は更にその奥のテーブル席を使うようにしている。というのも、
(今日もいた……)
 その隅のテーブル席で、入り口と対面に位置する席で静かに読書をしている女の子の姿を探すようになったからだ。
 彼女の名前は知らない。勇と同じ大学生くらいに見えるが、年齢も分からない。勇が知っている情報といえば、定食が運ばれてくるまでは静かに文庫本を読み、食事が目の前に運ばれてきたら黙々と食べ続ける、ということくらいだった。
 勇は、おそらく他者から見ればぎこちなさは露骨に表れているのかもしれないが、自分なりに自然を装って隣のテーブルの席に着いた。そしてコートを脱ぎ、財布と携帯電話をジーンズのポケットから出した後、メニューを眺めつつ隣の彼女を一瞥する。
 理知的を思わせる小さな透明な眼鏡の奥で、活字を追うやや切れ長の目が規則的に上下に動いている。透き通るような色をした唇はふっくらとしていて、鼻筋はすっと通っている。その横顔は見惚れてしまうくらいに綺麗だ。
 完全に一目惚れしてるな、という自覚はあった。食事と取るためではなく、彼女に会うためにこの店を訪れたのも一度や二度ではない。これ以上エスカレートするようなら、ストーカーと間違われてしまいそうだ。
 と、気付いたらじっと彼女のことを見ていることに気付き、勇は慌ててメニューに視線を落とした。その時、ちょうど良く先程の女性店員が温かなおしぼりと熱々のお茶を持って注文を聞きにやってきた。
「ご注文お決まりでしょうか?」
「え、っと……から揚げ定食をチリソースがけでお願いします。ご飯は、大盛りで」
「はい、から揚げ定食のチリソース、ご飯は大盛りですね。冷たいお茶はご利用でしょうか?」
「じゃあ、お願いします」
「はい、それでは少々お待ちください」
 営業スマイルを残して店員は厨房の方へオーダーを通しに行った。今度は意識的に彼女の方を見ないようにして、勇は熱いお茶に口を付ける。冷え切った体にお茶の温もりがゆっくりと広がっていくようだった。その後、店員は定食よりも先に冷えたお茶を運んできてくれた。
 手持ち無沙汰になった勇は、携帯電話を開いて過去のメールを流し読みしながら時間を潰す。しかし、それにすぐに飽きて携帯電話を閉じると、ちょうど店員が眼鏡の彼女にから揚げ定食を運びにやってきた。白飯、味噌汁、から揚げ、サラダ、煮物、漬物という栄養バランスの取れたこの店自慢の定食だ。
「お待たせしました、から揚げ定食でございます」
 店員が軽く一礼して下がると、眼鏡の彼女は読んでいた本を閉じてテーブル箸を取る。隣に座る人に失礼をかけないように箸を水平に持ち、上下に引っ張って二つに割る。そして手を合わせると、小さな声で「いただきます」と言い、食事を始めた。
 勇はわざと椅子の背もたれに深く寄りかかり、眼鏡の彼女のやや後方から眺める形で密かに食事風景を観察する。
 何度か近くに座って分かったことなのだが、彼女の食べ方は一言で言うと気持ちがいい。
 大食漢、というわけではないが、彼女は黙々と箸を動かして食べ続ける。一定の分量、一定の咀嚼、一定のペース。一つのおかずに偏るのではなく、順番に少しずつ箸を付けていくので、皿の上の料理は一定のスピードで彼女の口に運ばれていく。綿密な計算をしているのかどうかは知らないが、複数の皿が空になるのはほぼ同時なのだ。
 食べ盛りの男とは違い、彼女は決して一口に沢山を頬張るような失礼な真似はしない。迷い箸や寄せ箸、刺し箸もせず、細かな所作に気品というか上品さが感じられる。
 視線を固定させてしまっていることに気付かず、勇は茫然と彼女の食事風景を眺める。あまり大きな変化はないのだが、表情がほんの僅かだけ綻んでいるのが分かった。美少女と言っても過言ではない容姿をした彼女の好物がから揚げ定食というのは少しアンバランスかもしれないが、体型を気にしがちな女の子が量を気にせず美味しそうに食事を取っているのは見ているこちらも気分が良くなった。
 そんな観察を続けていると、勇の腹が空腹を訴えて小さく音を立てた。こちらが頼んだから揚げ定食はまだできないのだろうか、と厨房の方へ目を向けた。
 しばらく壁に掛かっている広告や、宴会キャンペーンの告知を眺めて時間を潰す。左手で頬杖を付いて料理の到着を待ち、勇がもう一度隣の彼女を一瞥した時だった。
「……っ! こほっ……! けほっ!」
 急に眼鏡の彼女が苦しそうにむせかえった。左手で胸元に手を当て、右手で持っていた箸を置きお茶が入っていた湯のみに手を伸ばしていた。変に飲み込んでしまったのかは分からないが、彼女にとっては珍しい。
 だが、彼女の湯のみは既に空だった。更に激しく咽る彼女の顔が赤くなり、苦しそうに歪む。
 どうすべきだろう、と勇は一瞬判断に迷った。店員は近くを歩いておらず茶のお代わりを頼むには時間が掛かる。だが、他人である自分が彼女の代わりに店員を呼んでしまったらお節介だと思われたりしないだろうか。それで嫌われるなんてことに発展する可能性もあり得なくもないのでは。
 と、彼女に嫌悪されることを恐れた勇だったが、辛そうに咳を繰り返す彼女を見て迷いが吹っ切れた。店員を呼ぶよりも、自分のテーブルにある茶を渡した方が早い。
「あ、あの、これ飲んで! 僕はまだ口付けてないから!」
 勇は先程店員が持ってきた冷たいお茶を差し出した。一瞬眼鏡の彼女は遠慮するように手を振っていたが、それでも息苦しさに我慢し切れなくなったのかグラスを手に取ってゆっくりと飲んだ。
 それから呼吸を整えながら彼女はお茶を飲み、グラスが空になる頃にはすっかり咳も収まっていた。
「だ、大丈夫……?」
 初めて話し掛けたという事を思い出して勇はおそるおそる訊く。落ち着きを取り戻した彼女はぺこりと頭を下げた。
「お騒がせしてすみません。お茶、ありがとうございました」
「いや、別に……とにかく、よかったね」
「新しいお茶を持ってきてもらいます。少し待っててください」
「あ、いいよいいよ。これから僕が頼んだから揚げ定食も来るだろうから」
「何から何まで本当にすみません」
 彼女の丁寧な口調に、逆にこちらが何か悪いことをしたような気分になって勇は萎縮してしまう。ただ、初めて彼女の声を耳にすることができた事に、同時に感動を覚えた。
 しかし、数秒の沈黙が挟まった瞬間、話題が途切れたことに気付いた勇は慌てて話題を探す。せっかく自然に話しかけることができたのだ、この機会を逃してしまうのは勿体ない。
「そ、そういえばよくこの店には食べに来てるよね」
「はい。このお店にから揚げ定食が好きなんです。このメニューで五百五十円ですし、非常にコストパフォーマンスも高いです」
「そそ、そうだよね。ご飯と味噌汁もお代わり自由だし」
「さすがに私はお代わりをすることはありませんが」
「そそそ、そうだよね……」
 酷くぎこちない会話だと自覚しつつも、勇は大学の入学試験の時以上に頭を回転させて話題を掻き集める。そういえば砕けた言葉遣いをしてしまったが、相手はもしかしたら年上だったんじゃないだろうか、という不安はこの際思考の中から蹴り飛ばしておく。
「こ……ここにはよく来るの?」
「はい。これを……」
 彼女は隣の席に置いてあった、あまり女の子らしさを感じさせない青いバッグから長財布と取り出すと、その中から数枚のスタンプカードを取り出した。
「これって……」
 思わず勇が瞠目してしまったのは、その枚数だ。少なく見積もっても十枚はある。
 このスタンプカードは、この定食屋独自のものだ。昼の時間帯で提供している定食を一つ注文するとスタンプが一つ押される。そしてスタンプを八つ貯めると、好きな定食が一つだけ無料で食べられるのだ。から揚げ定食だけではなく、値段の高いチキンカツ定食や日替わり定食など、好きなものを自由に選ぶことができる。
 つまり、彼女は最低でも八十回はこの店の定食を食べたということだ。
 ただ、何故貯まったスタンプカードを使わずに保持しているのだろう。何か特別な理由でもあるのだろうか。
「す、すごい……けど、どうして使わないの?」
「いつも会計の時に出すのを忘れてしまうんです」
 どうやら特に深い理由はないようだった。
「……これを一枚どうぞ」
「へ……?」
 このスタンプカードを一杯にするには、一体何万円をこの店の昼食で使ったのだろう、と少し汚い思考を働かせていると、彼女がその一枚を勇に差し出した。
「せめてものお礼です。今日はお世話になったので」
「べ、別にこれをもらうようなことはしてないよ……」
 単純計算、一番安いから揚げ定食でスタンプを埋めたとしても、このカードには最低四千四百円分の価値があるということだ。そんな高価な価値があるものを、お茶を一杯分けてあげた、という行為の見返りとしてもらえうのは気が引けた。
「構いません。また貯めればいいだけですから」
「そ、そう……? じゃあその、ありがとう……」
 表情が変化したわけではないが、彼女の瞳の奥には一度決めたことは貫き通す、という信念の強さがあったような気がした。相手の好意を無下にするのも申し訳なく思い、勇はありがたく頂戴することにする。
 カードを受け取る時に、少しだけ彼女の指先が勇の手に触れた。冷たいお茶の入ったグラスを手にしていたからだろうか、細い彼女の指は少しだけ冷たかった。
「それでは、私はこれで失礼します。今日は本当にありがとうございました」
「あ、うん。スタンプカード、ありがとう……」
「では、また」
 短くそう言い残して、眼鏡の彼女は伝票を持って立ち上がると、バッグを肩に掛けてレジへ行ってしまった。いつも以上に心拍を刻む胸に手を当てながら、勇はぼんやりとその後ろ姿を見送った。そして彼女が見えなくなった後、今更になって名前を聞くのを忘れたことに勇は気付いた。
 体がふわふわと浮いているような気がした。いつか彼女と偶然にも話をすることができればいいな、なんて願望がこんな形で実現を果たしたことに、正直勇は未だに戸惑いを隠せなかった。
 けれど、話してみて少しだけ仲良くなれたような気がした。少なくとも悪い印象は与えなかった(と信じたい)はずだし、沢山の謎に包まれた彼女のことを知ることができたのは嬉しかった。
「……そういえば、また、って言ってたな」
 それに、別れ際に彼女は再会を期待させるような言葉を残していった。つまり、あくまで勝手な解釈の範疇を出ないが、またこの定食屋で勇と会うことを嫌がってはいないと判断してもいいような気がした。
「お待たせしました、から揚げ定食のチリソース、ご飯大盛りでございます」
 夢見心地を吹き飛ばすようなタイミングで、ようやく勇が注文したから揚げ定食が運ばれてきた。
 とりあえず食べるか。勇は割り箸を割り、大きなから揚げを一つ口に運んだ。
 今日のから揚げは、いつもよりも美味しいような気がした。

満員電車の一幕

インターネットの過去のスレッドを少し検索してみると、電車での痴漢の冤罪被害というのは多々見かける。ああして被害話を綴っているのだから無事に冤罪を晴らすことはできた人が多いが、恐ろしいのは痴漢という問題に関係すると女性の発言力が異常なまでに力を持つことだ。今まで勇が見た傾向から考えると、自分の冤罪を晴らしてくれる証人がいる、若しくは被害を訴えてきた女性の言い分が破綻していなければ、逃げることは困難を極める。どこぞの偉い弁護士だったかが雑誌のインタビューにて、痴漢の冤罪被害に会わないためには訴えられた際に全力で逃げましょう、なんて法律を武器に戦うことを放棄するくらいなのだ。
 というわけで、勇は毎朝の通学の満員電車に乗る時は、どんなに体勢が悪くても両手で手すりかつり革に捕まるようにしている。こうすれば、性質の悪い女性に目を付けられなくなるし、仮に痴漢に間違えられたとしても誰かが自分の無実を証明してくれる可能性が高いのだ。
 ただ、それは止むを得ず満員電車に乗らなければならなった場合の対処方法であって、好き好んで頭皮の薄くなった中年男性の頭を見ながら圧迫感に耐えていたいなんて考えない。時間が許すのであれば座席に座って文庫本でも読みながら登校したいのだ。残念ながら、朝のホームルームの時間と乗り換え駅の方向がサラリーマンと被ってしまっているため、そんな願望が叶うことはないのだが。
「次は〜御津雪〜御津雪でございます。お出口は右側でございます」
 毎朝そんなむさくるしい苦行に耐える勇にも、唯一の楽しみというのがある。それが学校最寄り駅の四つ手前、御津雪駅の上り線ホームの中心にある自動販売機に売っている、『つぶつぶクリーミーポタージュスープ』を飲むことである。指先まで凍えるようなこの季節、わざわざ途中下車をするため、布団の誘惑を蹴って早起きをしているのだった。
 電車が御津雪に到着して扉が開くと、勇は乗客の下車の流れに逆らわずにホームへと降りる。熱気に包まれていた車内とは違い、凍てつくような北風がマフラーの僅かな隙間から入り込んでくる。だが、今の勇にとっては『つぶつぶクリーミーポタージュスープ』を美味しくいただくためのスパイスにしかならない。
 自動販売機の場所を計算して電車に乗ったため、冬の唯一の楽しみは目と鼻の先だ。勇は、予めブレザー右のポケットに用意していた百二十円を取り、自動販売機の硬貨入れに投入しようとした。
「さっきは乗ってたのに、どうして無理矢理降ろされた挙句、次の電車を待たなくちゃいけないのよ!」
 そんな怒気がこもった声が聞こえてきたのはその時だった。反射的に振り向くと、ちょうど真後ろに勇と同じ学校の制服を着た女の子が、小さく地団駄を踏んでいた。だが、彼女の怒りを気に留める人は誰もおらず、御津雪で下車した人々は目もくれていなかった。
 満員電車の苦痛に耐えた勇も彼女を気にすることわけでもなく無視する。別のクラスだけれど同じ学年だったような、という曖昧な記憶を引っ張り出すことはできたが、それ以上のことは思い出せない。確か名前は真帆だったが、苗字は覚えていない。
 目当ての飲み物を購入した勇は、真帆の存在を忘れて至福の一時を楽しむ。喉から食道へとゆっくり温もりが流れていく感覚を確かめる。そして幸福と安堵を混ぜた息をゆっくりと吐き出して白くなった息が漂い流れていくのを見て楽しむ。
 だが、朝の幸せに陶酔することができなかった。勇の視界の端に、ずっと真帆の姿が映っていたからだ。
 電車が行ってしまってしばらく時間が経ったというのに、真帆はずっと線路の先を鋭い視線で見つめている。振り上げた腕をどこに下ろせばいいのか分からないという風に見えた。きつく噤んだ口が彼女の機嫌の悪さを表しているようだった。
 真帆の口振りから考えて、満員電車に乗るのは初めてだったのだろう。おそらく下車する人々の勢いに飲み込まれて乗車待機列の最後に並ぶ羽目になり、自分が乗るよりも先に締め出されてしまった、といったところだろうか。
 三年前も自分もそんな経験をしたものだ、と勇は飲み物を口にしながら考えていた。だが、残念ながらそれが朝のラッシュというもので、勝者と敗者というものが出る一つの戦場なのだ。満員電車での身の振り方を知らなかった、という不利があったとて、残念ながらこの時間帯の乗客は同情なんてしてくれない。
「ったく……」
 同じく勇も真帆のことを無視して離れた乗車目標地点に並ぼうとしたのだが、もうしばらく次の電車が来るまで時間があったので、気まぐれを起こしてみることにした。
「……なぁ」
「な、何よ……」
 真帆に話しかけると、刺々しさを孕んだ声が返ってきた。相当ご立腹のようだ。
「あんたが乗る前に締め出された、って具合だろ、どうせ」
「……あなたには関係ないわよ」
「まぁ隠そうとしても、あんたの態度を見てれば大体分かるけどね」
「だ……だったら何だっていうのよ!」
 羞恥を隠すために真帆は顔を赤くしつつ半眼でこちらを睨んでくる。
「止むを得ず電車から降りざるを得ない場合は、扉の近くで待ってればいいんだ。そうすりゃ締め出される心配もない」
「そ、そんなことしたら並んでいる人の邪魔になるじゃない!」
「人を思いやってやれるのはいいことかもしれないけど、誰もあんたに感謝なんてしてないぞ。邪魔だと思われようが、ドア付近のポジションをしっかり取っておかないと今のあんたみたいなことになる」
「で、でも……」
「文句を言われようが無視しておきゃいい。そんな奴いるとも思えないけどな」
 尚も反論してくる真帆に勇は畳み掛けるようにして言う。赤の他人の邪魔になる、という心配をしてやれるのは素晴らしいが、貴重な朝の時間を犠牲にしてまで堅持しておくようなものでもないのだ。
「……そ、そういうあなただって、暢気にそんなものを飲んでるんだから私と同じように締め出されたんでしょう? そんな偉そうなこと言われる筋合いはないわ!」
「おい、一緒にするなよ。俺はこのつぶつぶクリーミーポタージュスープを飲むために降りただけだ。前から四つ目の車両の二つ目の扉。ここが一番自動販売機に近いんだよ」
「そんな言い訳……」
「言い訳じゃない。俺の朝の貴重な一時を馬鹿にするようなことは許さんからな」
 勇が僅かに凄むと、真帆はごにょごにょと呟きそして黙り込んでしまった。
 それにしても、勇は四年間同じ時間帯、同じ電車に乗って通学しているが、彼女の姿を学校以外で見たことがないような気がする。
「あんたさ、普段この路線使ってないんじゃないか? 通学の途中で見たことないような気がするけど」
 真帆の苗字は知らない勇には、話したこともない女の子の名前を呼び捨てにする度胸はなかったので、少しぶっきらぼうな言い方で質問する。
「……あなた、電車の中の生徒の顔をいちいち記憶してるの?」
「そんなわけないだろ。記憶違いなら別にそれでいいんだけど、毎朝満員電車なのに、今日初めて乗りました、っていう怒り方をしてたからな」
 真帆は値踏みするように勇を見つめ、黙り込んでしまう。その無言が、勇の推測が正しいということを告げていた。
「……普段はこんな路線使わないわ。ただ、その……時間に余裕があったし、たまには気分を変えて違う電車を使ってみようと思っただけよっ!」
「朝から優雅なことしてるんだな」
「い、いいじゃない別に! そんな気分ってだけだったんだから!」
「わ、分かったよ……」
 今度は逆に勇が真帆の迫力の気圧された。
 そうこうしている内に、次の電車が手前の駅を出たというアナウンスが流れた。逆に不機嫌を煽るような形になってしまい、真帆は怒った様子でそっぽを向いてしまった。余計なことをしてしまったな、と少し自分の気まぐれを後悔しつつ、勇は空になった缶を捨ててその場から離れようとした。実は、この自動販売機の前の車両が最も混雑しており、後ろの車両へ回った方が幾らか人混みが緩和されているのだ。
 離れる前に勇はじっと真帆の横顔を眺める。これ以上気を回す必要はないのだが、無知な真帆が人の波に圧迫されて苦しむのを放っておくのも少し心が痛むので、アドバイスをしてやることにした。これが最後だからな、と勇は何故か自分にそんな言い訳をした。
「……少し後ろの車両に回った方がいい。学園前駅までその車両が一番混むぞ。後ろの方が多少混雑が楽になる」
「……え?」
「信じるも信じないも勝手だけど、別に騙そうなんて思ってない。それだけだ」
 そう言い残して勇はホームの後ろへ移動する。親切心を表に出したことが恥ずかしくなって、逃げるように足早になった。
 ちらりと後方を一瞥すると、真帆は列から離れないままこちらを睨むように見ていた。ここまで同情されるのはプライドが許さないのだろうか。強情に我を通すというのであれば、これ以上はもう面倒は見切れない、と勇は小さく舌打ちをして前を向いた。
 そして最後尾付近の車両の乗車待機列に並んで電車の到着をじっと待つ。と、その時不意に自分の後ろに並ぶ気配を感じて、勇は振り返った。
 そこには、少しだけ顔を赤らめて視線を逸らす真帆の姿があった。
 堪えきれずに笑いを漏らした勇に対し、「なによ!」と真帆が怒りを露にしたのだった。

テニスの試合後の一幕

※ 本編のヒロインは大図書館の羊飼いの佳奈すけをイメージしておりますが、ゲーム本編とは一切関係がないことを予めご了承ください。大図書館の羊飼いのSSでもありません。


「ありがとうございましたー……」
 字面から見れば感謝の言葉ではあるのだが、勇の声には大きな疲労感と少々の悔しさしか込められていなかった。
「ありがとう、ございましたー……」
 最後に握手した佳奈も、まったく感謝の気持ちのない挨拶を返してくる。
 試合が終わり、手早くスポーツドリンクとタオルとラケットをバッグに仕舞い、早々にコートを後にする。そして自動販売機前に設置された大会本部のテーブルの前を通り過ぎ、駐車場の奥へ足早に移動する。この間、勇と佳奈の二人は互いに無言。だが、荷物をどさりと地面へ置くと、佳奈が両手を大きく上げて小さく叫んだ。
「あー、もう! 負けも負けのダンゴ負け! 一ゲームも取れないとか、どんだけ強いんですかあの人達!」
「まぁ……一ゲームも取れなかったのは俺の責任でもあるよな……。ミックスダブルスは男のサービスはキープするものだ、って色んな人から言われてきたのに、見事に全部ブレイクされちまったわけだしさー……」
「い、いやいやいや! 勇先輩のせいじゃないですから! 終盤なんて前衛にいた私が狙われまくって、そりゃもうミスしまくりだったんですから!」
「それはつまり、俺のサーブが威力がなくて頼りないって意味か……」
「悲観的に捉えすぎでしょ!」
「だって、俺のサーブゲームの話だろ……佳奈が狙われまくったのって……」
「それはそうですけど……」
 がっくりと肩を落とした勇の気分が、加速度的に負の方へ走っていく。ペアを組んだ佳奈は慰めてくれているようだが、今の勇には心に突き刺さる非難にしか聞こえなかった。
「先生には、試合を楽しんで来い、って言われたけどさぁ……楽しむ余裕なんてなかったよなぁ……」
「ゲームの中での一ポイント目と四ポイント目は集中しろ、とも言われましたよねぇ。試合中はそんなこと思い出してる余裕なかったですけどねー……」
「つまり、俺達は試合の雰囲気に飲まれたってことだよなぁ」
「あ、あはは……実は結構ガチガチに緊張してたんですよね、私……」
「それは最初のボレーの時に両足がべったりくっついてたのを見て分かった」
「気付いてたのなら少しはフォローしてくださいよぉ……」
「いや、だからポイント間は声掛けたりハイタッチしたりで緊張を解そうと思ったんだぞ」
「そ、そうだったんですか、すいません私が不甲斐なくて……」
「だから不甲斐ないっていうならそれは俺なんだってば……。ミックスダブルスなのに女の子をサポートしてやれなかったんだぞ」
「……お互い泥沼にはまって抜けられなくなってますね」
「まぁ、これだけコテンパンにされたらなぁ……」
 互いの口から同時にため息が漏れた。敗戦から学ぶ姿勢にならなければ無意味とは分かっていても、しばらくは頭を切り替えることはできそうになかった。
 冬休みに入った日曜日。互いに学校の硬式テニス部に通う二人は、市が一年に一度開く大きなテニスの試合に出場していた。毎年多くの参加者が出場するレベルの高い試合と言われており、大会初日の今日もなかなかの賑わいを見せていた。
 部内で先輩と後輩という関係にあたる二人が何故試合に出場しているのか。理由は単純で、以前に男子、女子テニス部の合同練習の際に偶然ペアを組んだ二人が抜群のコンビネーションを発揮して優勝したため、周囲の部員(大半は女子)から市の大会に出場してみたらどうかと勧められたからである。
 素人同然のプレイヤーならばやんわりとはぐらかしつつ辞退するのだが、優勝した実績を考えて勇と佳奈は互いに試合に出場することにしたのだった。そもそもテニスプレイヤーにとって、実戦が何よりの経験であるのは確かだし、佳奈がペアならいいところまで勝ち上がれるのではないかと思ったのも理由の一つだ。
 だが、結果は散々。八ゲームマッチだというのに、勇と佳奈のペアは一ゲームも取ることができずに初戦で早々に敗退してしまったのだった。
「……今考えたらさ、対戦相手ってどっかのスクールのコーチだったんじゃね?」
「そうかもしれないですよね。一つ一つのプレーが落ち着いてましたし」
「場数を踏んでる、ってのもあるよな。俺達が試合経験浅いわけじゃないけど、学外での試合は両手で数えられるくらいしか出てないし……」
「そういえば、さっき私達が帰ろうとした時に言われましたよ。あなた達ならきっと上手くなれるわー、って! 何ですか、あの上から目線! あれが勝者の余裕ってやつなんですかね!」
「上から目線っていうか、年齢も経験も向こうの方が上だけどな……」
「悔しいから、次の試合で負けちゃえばいいんだ、って念じておきましたよ!」
「それはスポーツマンとしてどうなんだ……?」
 自棄酒をする年配の男性サラリーマンのように、佳奈は勢いよくスポーツドリンクを煽った。
「けどさ、ごめんな鈴木。勝てなきゃ試合なんて出る意味なかったよなぁ」
「そ、そんなことないですって! 勇先輩と出られたんだし……」
「ん? 俺とペアを組めば勝てるかも、ってことで今日の試合に出ようとしたんじゃなかったのか?」
「それは、えっと……」
 何故か佳奈は頬を赤らめた。勇が想像していた理由ではなかったらしいが、では佳奈はどうして試合に出場しようと決めたのだろう。
「んー……周りが持てはやして引っ込みが付かなくなったとかか?」
「そ、そんなとこですかね、あははー……」
「……尚更俺の立場がねぇ。一勝すらできなかったとは……」
「勇先輩! ループ! ループしてますって!」
 結局一勝もプレゼントしてやれなかった自分の実力不足が原因ではないかということに行き着き、勇は頭を抱えた。男である勇も、多少は佳奈の前でいい格好をしたいという見栄があったのだ。
「と、とりあえずさっきの試合で何が悪かったのか、反省も交えながら色々と検討してみましょうよ、先輩」
「そうだよなぁ……」
 佳奈に促されて、思い出したくない記憶になり欠けていた先程の試合を頭の中でリプレイしてみる。
 悪かった点として、立ち上がりの緊張だ。試合という舞台に立つ以上平常心というものは必要不可欠だが、勇も佳奈も最悪の立ち上がりをずるずると引きずり、結局本調子を取り戻す前に試合が終わってしまった。それがまず一つだ。
 それに付随して、自分が佳奈に気を遣ってやれなかったことも反省すべき点だ。ダブルスなのだからペアの不調は支え合っていかなければならない。自分の事で手一杯だった、なんて言い訳は許されない。勇は男であり佳奈は女の子だ。体格、身長、力、それらが優れた男が引っ張ってやる必要があるのだから、
 後は、勝負すべきポイントで弱気になりロブで逃げてしまったことも原因だ。全力で打ち込むべきタイミングでは、相手の体にぶつけるくらいの気概を持って勝負に挑まなければならなかったのに、ネット前に果敢に詰めてくる相手ペアに翻弄されて、つい頭上を抜こうなんて安易な手段に逃げてしまった。
「うーん……と……」
 議論に進む前に勇は思案する。後は、率直に考えていかんともし難い実力差、だろうか。これは反省する点というよりは、抽選の運が悪かったと嘆くしかないのかもしれないが。
「……あれ?」
「どうしました、先輩?」
 敗戦から自分達の課題を探していて、ふと勇は気付いた。いや、気付いてしまった。もしかしたら自分達は最初の一歩を間違えてしまったのではないか、ということに。
「勿論俺達が実力を出し切れなかったのも負けちまった大きな理由の一つだけどさ、そもそも俺達って出る試合を間違えたんじゃないか? 初級者、中級者、上級者、ってレベル分けされてる試合に出た方が、もっと実力が近い人達が出場してて得られるものも多かったと思うんだよ」
「あー……そういえば、そうですね」
「市の大会なんだから、この市に住んでる人達全員に資格があるわけで、まどろっこしい実力分けなんてないんだから、俺達みたいな学生がコーチレベルの相手と当たっても仕方ないんだよな……。そうだよ、初級者、中級者が集まる試合に出りゃよかったんだ……」
「つ、つまり私達って……無駄なことをしてたってことですかね?」
「無駄とは言わないけど、俺達は一方的に蹂躙されたようなものだろ。そんな試合で得られるものなんて考えてもそんなに多くないだろ」
「先輩、蹂躙って……まぁ、言い得て妙ではありますけど……」
「もっと俺達の身の丈に合う大会に出ておけばよかったよなぁ」
 大会に出る以前に、その大会を選んでおくべきだった、という最初の一歩を踏み出し間違えていたことに気付き、勇は大きなため息をもう一度吐き出した。周囲の部員だけではなく、顧問に勧められたこともあったが、あの時もう少し冷静に考えることができていれば、と悔やむ気持ちは多々あった。
「……というわけで、やっぱりごめんなぁ。負けて嫌な思いさせちゃっただろ?」
「い、いえいえいえ! これでも鈴木は鋼の精神を持つ平々凡々な苗字を持つ女の子で通っているので!」
「無理してるだろ?」
「あ、あはは……。けど、試合には負けちゃいましたけど、いい経験になりましたよ」
「そう言ってくれると救われるよ。今度はちゃんとレベル分けされてる大会を目指して頑張るとするか」
「え……?」
 佳奈が意表を突かれたような顔をしていた。間違ったことを言ったつもりはないのだが、と思った直後、自分が勝手にミックスダブルスのペアを佳奈と組むことを前提に話していたことに気付いた。
「あ、悪い悪い。俺じゃミックスのペアとして不甲斐ないし、他の人と組んだ方がやりやすいとかあるもんな」
「そ、そそそ、そんなことないですよ! 学校での試合でもそうでしたけど、先輩とペア組むとすごくやりやすいですし! 後ろは任せっきりになっちゃいますけど……」
「別に気にしなくていいぞ。鈴木みたいに前で積極的に攻めてくれるとこっちも助かるからな。多少パッシングで抜かれたとしても、ネット前でべったり張り付いてるだけ、ってのよりはいいし」
 後ろの方で山なりの軌道を描く威力の乏しいボールを打って、ミスをしないよう無難に返しておこう、と考える女の子のテニスプレイヤーは多い。だが、鈴木は甘い球を打ち込み、隙あれば前に詰めてボレーをしに飛び出す積極的なプレースタイルの貴重な選手だ。勇としても、多少のミスを覚悟で攻め続ける佳奈のプレーは好きだし、後衛を守る時はカバーのし甲斐がある。
「だからその、先輩がよければ是非次の試合でも……」
 と、普段の快活そうな雰囲気とは違って、佳奈はもごもごと言い難そうにしていた。
「そうだったのか。俺も鈴木が一番やりやすいし、次もペアを組んで試合出てくれるっていうなら俺も嬉しい」
「ほ、本当ですか!」
 大きな声で嬉しそうに言った佳奈の勢いに、勇は一瞬たじろぎそうになった。
 だがお世辞でも何でもなく、練習を積み試合の経験を増やしていけば、着実に実力をつけて夏の大会でいいところまでいけそうな気がするのだ。
「じゃあ明日部活の時に先生に相談してみっか。もうちょっと俺達の実力にあった大会を教えてくださいってよ」
「ですねですね! よし、燃えてきましたよー! 今度こそ優勝しましょうね!」
「最初は二回くらい勝てばいい、ってくらいの目標でいいんじゃないか?」
「先輩、何弱気になってんですか! やるなら優勝する気持ちで挑みましょうよ! そんな弱気だとプレーにも影響するんですからね」
「分かった分かった。じゃ、次は優勝するつもりで練習しないとな。おし、それじゃあそろそろ帰るか。鈴木は帰りはバス? 電車?」
「私は電車です。先輩は?」
「俺も電車だ。じゃ、駅まで今日の試合の反省会といきますか」
「そうしましょうか」
 新たな目標が決まった勇と佳奈は、今日の敗戦で得た悔しさを次の練習での熱意へと転換させつつ駅を目指す。
 隣で佳奈が一瞬小さなガッツポーズを作っていたのは不思議だったが、勇は気に留めることなく、試合の立ち上がりの緊張の克服について解決策がないかどうかを話し始めた。

C83 流星サブセイダース発足! の一部

「僕以外……みんな風邪ひいちゃうなんて……」
 本日生徒会室に最初に到着したのはシンだった。どちらが先に到着するか、と一方的に勝負を仕掛けてくる聖沙がすぐに来るだろうと思っていたのに、五分、十分経っても一向に姿を現さなかった。それだけではなく、二十分経ってもリアすら姿を見せないのである。何か突発的な用事が入って遅れているのだろう、と思い込みながら生徒会室の掃除を始めていたのだが、誰も生徒会室の扉を開くことがなく一時間が経過してしまった。
「ナナカは出席の時点で風邪だって分かってたけど、みんなロロットの風邪をもらっちゃったんだ……」
「ったく、あの天使は本当にロクなことをしないぜ」
「ロロットを責めたら可哀想だよ、パッキー」
「けっ、風邪を引いたやつは周りにウイルス撒き散らさないようにマスクをするのが礼儀ってもんだぜ」
「どうしてそんなにやさぐれてるのさ?」
「リアちゃんとの甘い一時が無くなっちまったじゃねーか!」
「ま、まぁまぁ……」
 いつだって甘い一時を過ごしたことなんてないじゃないか、というツッコミの言葉を飲み込みシンはパッキーを宥める。
 四人が風邪をひいたということは、しばらく生徒会は生徒会長であるシンがたった一人で運営しなければならなくなる。そう考えるとシンも思わず溜息を漏らしてしまいそうになった。生徒会長は全ての仕事をオールラウンドにこなせるとはいえ、たった一人で仕事を抱え込むには負担が大きすぎる。
「でも、聖沙もナナカもリア先輩も風邪をひいちゃったってことは、ロロットの風邪は感染力が強いのかな? それなのに僕一人元気だけど?」
「魔王様は普段から貧困生活してるからな。そのせいで免疫力やら抵抗力が培われてるんだろ。どう考えても一日の栄養が足りてないのに無駄に元気だからな、魔王様は」
「無駄にって言わないでよ」
「ククク……さすが魔王様だぜ。風邪のウイルスなんて相手じゃないってことか」
「え、魔王って病気にかからない体質なの?」
「そんな話は聞いたことないけどな」
「なんだ……」
 けれど、思い返してみてもここ十年くらいは風邪で寝込んだことはなかったような気がする。冬場でも半袖、短パンで外を遊びまわっていたけれど、よくそんな格好をして風邪をひかなかったな、と自分でも驚いてしまう。
「それよりも、生徒会活動はどうしようかな……。僕一人じゃ聖夜祭のことも話し合えないし……」
「保留にしておくしかないぜ。他に仕事はないのか?」
「うーん……掃除もさっき済ませちゃったし、あとは各部活からの要望や意見が書いてある意見書を読んで、各部に直接話を聞きにいって問題を解決する、っていうことくらいかな」
「地味な仕事だぜ」
「これも立派な生徒会の仕事だよ」
 シンは、昨日聖沙がまとめてくれていた意見書の束を手に取り一枚ずつ目を通していく。だが、要望のほとんどはシン一人では解決できそうにないものばかりだった。残念ながら、皆が風邪を完治させるまではろくな仕事ができそうにない。
「うーん……やることがないね。ナナカの仕事でも手伝っておこうかな」
「やめておいた方がいいぜ。きっと金額を見ただけで魔王様は卒倒しちまいそうだぜ」
「す、数字だけなら大丈夫だよ、きっと」
「五百円すら直視できないくせに、そんなの無理だぜ」
「じゃあ……ロロットの書記の仕事を手伝おう」
「あの天使は毎日食べるか寝てるかのどっちかしかしてないぜ」
「そ、それじゃあ……リア先輩みたいに美味しいお茶を淹れて……」
「どうせ出涸らしになるぜ」
「……僕、何もできないや」
「じゃあ何もしなくていいんじゃねえか?」
「そういうわけにもいかないよ」
 いくら考えてみても自分にできることが思いつかず、シンは唸りながら室内を歩き回る。一台だけ備えられたノートパソコンを整理しようとしたけれど、つい先日ファイルは整理してしまったし、キラフェスの写真のバックアップ作業は終わっている。昨日の掃除で埃は欠片も見当たらないし、普段お茶の時間に使っている湯呑みやティーカップは漂白剤に浸けたばかりで茶渋は完璧に洗い落とされている。
「僕は生徒会長だし、みんなの模範になるような行動をしなきゃ」
「それじゃあ校内を歩き回ってたら仕事なんてゴロゴロ落ちてるんじゃねえか?」
「そうだね。それじゃあ今日は一人で歩き回ってみることにしようかな」
 生徒会室に仕事がないのならば、パッキーの言う通りここから出て校内をうろついてみることにしようか。生徒会活動とは違う、たんなる雑用になってしまうかもしれないけれど、サボッているよりはマシだ。
 よし、と小さく自分を鼓舞して早速生徒会室から出て行こうとする。
「話は聴かせてもらった!」
「ヘ、ヘレナさん!」
 だが、突然呼び止められてシンは立ち止まる。声が聞こえてきた背後を振り返ると、この生徒会室にはシンとパッキーしかいなかったはずなのに、ヘレナが両腕を組んで澄ましたような笑顔を浮かべて窓際に立っていた。どうやら今日もまたキャラを作っているらしい。
「ど、どこにいたんですか……? 僕とパッキーしかいなかったはずなのに」
「ん? カーテンの裏よ」
「小学生じゃないんだから……。そういえばリア先輩は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。39.5度の熱を出して寝込んでるわ」
「大丈夫じゃないと思うんですけど……」
「聖沙ちゃん、ナナカちゃんも同じ症状みたいだから、どうやらロロットちゃんから風邪をうつされてしまったみたいね。凄いわね、シンちゃんだけピンピンしてるじゃない」
「どうしてなのかは僕も分からないです」
「うーん……免疫力が高いのかしら。リアは昨日家に帰って来てから念入りに手洗いをうがいをしても感染してしまったっていうのに……。もしかしたら、シンちゃんは普通の人とはかけ離れた強靭な抵抗力を持っているのかしらね」
「えっ!」
 ヘレナは冗談のつもりでいったのだろうけれど、まるでシンが人間ではなく魔王であると言われているような気がして思わず後ずさりしてしまう。この理事長は、たまに人が必死になって隠そうとしていることをあっさりと看破してくるのが怖い。ヘレナは特に意図せず言ったのだろうけれど、シンの動悸が少しだけ激しくなった。
「どうしたのシンちゃん?」
「い、いえ……何でもないです……」
「それよりシンちゃん。皆の風邪が治るまでは生徒会活動はお休みでいいわよ」
「え、でもそれじゃあ……」
「そんなことよりも、もっと大事なことがあるわよ?」
「大事なこと……?」
「みんながいなくなって困るのは生徒会活動だけじゃないでしょう?」
 呆れたようにヘレナがそう言ってシンの胸を指差した。冷静に考えてみろ、ということだろうか。シンは腕を組み、首を小さく傾げながらヘレナが言わんとしていることを推測してみる。
 ナナカ、ロロット、聖沙、リアがいなくなってシンが困るようなこと。共通しているのは全員が生徒会の一員であるということだ。しかし、生徒会活動以外で五人が行動していることはあっただろうか。生徒会活動後に寄り道をして食事をしに行く、というのは関係がなさそうだ。もしかしたらナナカが病に倒れたことで朝食のソバが食べられなくなってしまったことだろうか。しかし、それではナナカ以外の三人が関係がない。生徒会活動も食事も関係がないとすれば、残るは皆と一緒に行っている魔族退治しかなさそうだが。
「……あ」
「気付いたみたいね」
「そっか……魔族退治……」
 胸を指された理由は、思い出せ、ということではなく、守護天使の力を借りるために必要なロザリオのことを意味していたのだ。ようやくヘレナの危惧の矛先が分かり、そして同時に現状が恐るべき状況であることに気付き、シンは言葉を失った。
 この数日間、夜のパトロールで魔族と遭遇することがなく平和ボケしてしまったからかもしれない。流星生徒会、いや流星クルセイダースの中で現在魔族と交戦することができるのはシンしかいないのだ。シン一人の力量など高が知れている。魔族一人すらシン一人では退治することができないだろう。
 背中に纏わり付くような恐怖を感じ、シンは震える手でロザリオを握り締める。ここ最近は魔族に遭遇することはなかったけれど、この平穏が四人の仲間の完治するまで続くという保証はどこにもない。早急に手を打たなければ流星学園、いや流星町の平和が脅かされることになる。
 だが切り札がないわけではない。パッキー以外は知らない事実。シンは魔王の力を持っているということだ。まだ完全に力をコントロールできるわけではないけれど、それでも病に倒れた仲間達の戦力は埋めることができるかもしれない。しかし、魔王であることを明かすことはなるべく避けたい。ナナカと、ロロットと、聖沙と、リアと、今まで培ってきた絆が、魔王であるという隠し事を明かすことで粉々に壊れてしまいそうで怖くなる。
 それでも、今は迷っている場合ではないのかもしれない。この躊躇のせいで魔族退治に失敗すればそれはシンの責任ということになる。キラキラの学園生活に別れを告げる覚悟を固める必要がありそうだ。
「シンちゃん。そんなに思い詰めなくても大丈夫よ」
「え……?」
 そこへ、ヘレナがシンを安心させるように肩を二度叩いた。
「さすがにシンちゃん一人に魔族退治を任せるのは酷だもの。というわけで、今回は頼れる助っ人を用意したわ!」
「助っ人……ですか?」
「そう。助っ人はピンチの時にこそ現れるものよ」
「けどよ、魔族と対等に戦うためには霊術か魔法を行使しないと対抗できないぜ」
「パーちゃん、私がそんなこと見落とすと思う? ここに来るように言ってあるから、もう少ししたら来ると思うわ」
 良かった、とシンは胸を撫で下ろし安堵する。理事長であるヘレナが用意してくれたのだ、きっとシン達の実力を軽々と凌駕するような人物に違いない。シンにはそんな人に心当たりはないけれど、顔の広いヘレナだからこそ、こうした突発的な人員補充が可能だったのだろう。
 問題はクルセイダースとしてのコンビネーションの問題だ。上手く呼吸を合わせられるような人であればいいけれど。そんな期待と不安が緊張を呼び起こすと、生徒会室の扉が控えめにノックされた。どうやらヘレナが呼んだ助っ人が到着したようだ。
「空いてます、どうぞ」
「来たわね。心配しなくてもいいわよ、シンちゃんの知ってる人だから」
「僕の知ってる人……? って、あっ!」
 魔族と互角以上に渡り合えるような人物。シンの知り合いにそんな人がいただろうか、と思い出す前に生徒会室の扉がゆっくりと開いた。そして姿を現した四人の女子生徒を見て、抱いた期待が即座に疑問へと変わっていく。

来年の夏コミ小説? ティンクル☆くるせいだーすPSS Venus Embryo〜Grand Finale〜 プロローグ

「……話は以上よ」
 ルルシェはそう締めくくると、短い吐息を漏らして肩を脱力させた。一度、メリロットとヘレナに視線をやったが、口を噤むとルルシェは俯き目を伏せてしまった。
 そして、流星クルセイダースとアゼルの六人は、その驚くべき真実を耳にして言葉を失っていた。長い静寂の中で木霊しているのは、図書館の受付横に設置されている大きな柱時計が時を刻む音だけだった。
 呆気に取られてしまうのも無理はなかった。去年の聖夜祭において、人間、天使、魔族が力を結集し、三界の崩壊を引き起こすリ・クリエを退けたが、その原因というのが神様が恋煩いだというのだから。
 だが、おそらくこの中で最も強くショックを受けているのはメリロットだ。彼女はニベの一族としてリ・クリエに関する様々な事象の観測を行い、膨大なまでのデータを収集し続けてきたのだから。それが、全く無意味とまではいかないまでも、長年の調査によって作り上げた説を根底から砕かれてしまったのだから、茫然自失してしまってもいいくらいだ。
「……ごめんなさい」
 長い沈黙を破ったのはルルシェだった。一度顔を上げると、メリロットの瞳を真っ直ぐに見つめて頭を下げた。
「ずっと……あなたにはつらい使命を課してしまって……」
「……ふぅ。確かに、ショックがないと言えば嘘になってしまうかもしれませんね」
「世界が滅びちゃう、っていうリ・クリエの原因が、好きな人に会いたいっていう神様の気持ちだかんね……」
「そうまでして魔王さんに会いたかったんですね」
「……ま、良かったじゃない。メリロットの代でこの使命も終わったと思えば」
「そう簡単に割り切れることではありませんよ……」
 メリロットは重たいため息をついたけれど、その表情には少しだけ微笑みがあった。
「こんな謝罪だけで、全てが許されるなんて思ったりしてないわ。だから……」
「ルルシェさん。これ以上気に病んでも、それは詮ないことです。今は過去を振り返るよりも、前を見つめましょう」
「メリロット……」
「そうそう。誰一人としてルルシェちゃんを責めようなんて人はいないわ。そうよね?」
 そう言ってヘレナが全員の顔を見回すと、示し合わせたようにシン達は小さく頷いた。真実に驚いたという気持ちを完全に拭うことはできないけれど、迷惑を被ったなんて後ろ向きな気持ちはこれっぽっちもない。
「つまり、魔王を求める気持ちがイレアさんになって、世界を守ろうとする気持ちがルルシェさんになった、ってことでいいのかしら?」
「ええ、そうなるわね……」
「イレアの本質はリ・クリエに酷似した力ってわけだな?」
「ってことは、アタシ達はまたあのラスボス級の敵と戦うってこと?」
「最低で、だけどな。ま、きっとそれ以上の覚悟が必要になるんじゃねーか?」
「でも、戦うって決まったわけじゃないわ。きっとイレアさんともしっかりとお話することができれば……」
「素直に耳を貸してくれればいいけどな」
「最初に会った時は、戦うことになっちゃったもんね……」
「ひぅぅ……もうこりごりです……」
「おおごとになってきたな」
 だが、話が現状の確認へと戻ると、図書館の空気は悲観的な重さを増していった。ナナカ、ロロット、聖沙、リアの四名は一度イレアと戦ったこともあって、とりわけ表情は暗いものだった。
 イレアは意図的にリ・クリエと同じ三界の崩壊現象を引き起こすことができる。おそらく、イレアが持つ潜在的な力は数週間前の聖夜祭で退けたリ・クリエの力を軽々と凌駕する。そう考えると、手放しに楽観的に構えることが難しいのはよく分かる。
 けれど、シンは同じ議題の席に付きながらも、心情的には一歩距離を取って話し合いを聞いていた。
 果たして、イレアを止めることが三界の危機を救い、平和を取り戻す目標であるのだろうか。頭の中に生じたその引っ掛かりを取り除くことができなくて、一人だけシンは居心地の悪さのようなものを感じていた。
「……ねぇ、ルルシェ。一つだけ聞いてもいいかな?」
「何かしら?」
「ハーヴィスさんが……その、自分を封印したっていうのは……」
 先刻のルルシェの話にあった、初代魔王ハーヴィスが辿った運命。それについて改めて確認しようとしたが、シンの言葉を聞いた途端にルルシェの瞳が今にも涙を零しそうな程に悲しみを帯びた。
「ハーヴィスは……リ・クリエをその身に宿して、封印したの……。そのおかげで、リ・クリエを止めることができたけど……彼がもう目覚めることは……」
「……ハーヴィス様は、最初から自分を犠牲にしてリ・クリエを封印するつもりだったんだ。俺様も、ロザリオに宿ってるルミエル達とも力を合わせても、結局消滅させるまでには至らなかったんだ」
「誰一人としてハーヴィス殿の決断に気付かなかった我らにも、その責任はあるのやもしれないがな……」
 最初に起きたリ・クリエを知る三人は、悲哀、苦難、後悔を滲ませながら言った。
 だからこそ、シンは確信した。魔王と会うためにリ・クリエもどきを引き起こすイレアを止めることが、到達すべき結末ではないということに。その果てに平和が訪れたとしても、悲しみを全て拭い去るということにはならないということに。
 シンが目指すもの。それはキラキラの学園生活をおくること。それは自分だけではなく、流星生徒会が発足した時に全校生徒の前で誓ったことだ。いや、流星クルセイダースの使命を任されてから、シン達に関わってきた天使や魔族、そして流星町に住む人々さえも巻き込む大きな願いになった。
 だから、イレアやルルシェも助けてあげたいと思う。そのためにはイレアを思いとどまらせるだけでは足りない。誰かの犠牲の上に成り立つ平和ではなく、誰もが笑顔を取り戻すために決着をつけなくてはならない。
「シン、どったのさっきから?」
「なにか、考えごとかな?」
「……分かったんです。僕達はどうすべきか、っていうことが」
「だから、それはイレアさんをどうやって止めるかっていう……」
「違うよ、聖沙。そうじゃないんだ」
 そう言って、シンはルルシェをじっと見つめる。想いを吐露したルルシェはまだ悲しそうな目をしていた。
 もしかしたら、イレアを説得し思いとどまらせた果てに待つ平和を掴む方が正しいのかもしれない。ルルシェ、パッキー、エグザエルが諦観してしまっていることを無視してもいいのかもしれない。
 けれど、どんな苦難が待ち受けているとしても、シンはその道を歩みたかった。キラキラに輝く未来を手にするためには、三人の傷心を見てみぬ不利なんてできなかった。
 きっとそれは可能になる。人間と天使と魔族が手を取り合うことができた絆を信じれば、何にだって負けることはないはずだから。
 そしてシンはおもむろに口を開く。
 一片の迷いもなく、ありたっけの勇気を込めた言葉を。
「ハーヴィスさんを救おう。最初のリ・クリエを、僕達が倒すんだ!」

ティンクル☆くるせいだーす 二次創作小説「実況クルくるプロ野球 完結編」

まず始めに。
以下の二次創作小説のリンクに飛ぶ前に、前記事のリンクにある小説を読んでいただくことを強くお勧めいたします。
続きもののお話となっており、前作のすぐ後の話として物語は進んでいきます。







さてさて、完全にネタに走った小説の第二弾を発表いたします!(眠らせていても勿体無いので)

実況クルくるプロ野球、完結編がこちらとなります!

http://gensoudaikon.dotera.net/ss/kurupro2.html

前作と比べて、相手チームの戦力が大幅アップ!
あんなに苦戦を強いられたのに、果たして流星オールスターズは再び勝利を手にすることができるのか!
勝つために、以前の試合では好き勝手やっていた二人が遂に動き出す!

一部のキャラが完全にキャラ崩壊しておりますが、そこはご愛嬌ということで!

よろしければ是非是非読んでみてください!