満員電車の一幕

インターネットの過去のスレッドを少し検索してみると、電車での痴漢の冤罪被害というのは多々見かける。ああして被害話を綴っているのだから無事に冤罪を晴らすことはできた人が多いが、恐ろしいのは痴漢という問題に関係すると女性の発言力が異常なまでに力を持つことだ。今まで勇が見た傾向から考えると、自分の冤罪を晴らしてくれる証人がいる、若しくは被害を訴えてきた女性の言い分が破綻していなければ、逃げることは困難を極める。どこぞの偉い弁護士だったかが雑誌のインタビューにて、痴漢の冤罪被害に会わないためには訴えられた際に全力で逃げましょう、なんて法律を武器に戦うことを放棄するくらいなのだ。
 というわけで、勇は毎朝の通学の満員電車に乗る時は、どんなに体勢が悪くても両手で手すりかつり革に捕まるようにしている。こうすれば、性質の悪い女性に目を付けられなくなるし、仮に痴漢に間違えられたとしても誰かが自分の無実を証明してくれる可能性が高いのだ。
 ただ、それは止むを得ず満員電車に乗らなければならなった場合の対処方法であって、好き好んで頭皮の薄くなった中年男性の頭を見ながら圧迫感に耐えていたいなんて考えない。時間が許すのであれば座席に座って文庫本でも読みながら登校したいのだ。残念ながら、朝のホームルームの時間と乗り換え駅の方向がサラリーマンと被ってしまっているため、そんな願望が叶うことはないのだが。
「次は〜御津雪〜御津雪でございます。お出口は右側でございます」
 毎朝そんなむさくるしい苦行に耐える勇にも、唯一の楽しみというのがある。それが学校最寄り駅の四つ手前、御津雪駅の上り線ホームの中心にある自動販売機に売っている、『つぶつぶクリーミーポタージュスープ』を飲むことである。指先まで凍えるようなこの季節、わざわざ途中下車をするため、布団の誘惑を蹴って早起きをしているのだった。
 電車が御津雪に到着して扉が開くと、勇は乗客の下車の流れに逆らわずにホームへと降りる。熱気に包まれていた車内とは違い、凍てつくような北風がマフラーの僅かな隙間から入り込んでくる。だが、今の勇にとっては『つぶつぶクリーミーポタージュスープ』を美味しくいただくためのスパイスにしかならない。
 自動販売機の場所を計算して電車に乗ったため、冬の唯一の楽しみは目と鼻の先だ。勇は、予めブレザー右のポケットに用意していた百二十円を取り、自動販売機の硬貨入れに投入しようとした。
「さっきは乗ってたのに、どうして無理矢理降ろされた挙句、次の電車を待たなくちゃいけないのよ!」
 そんな怒気がこもった声が聞こえてきたのはその時だった。反射的に振り向くと、ちょうど真後ろに勇と同じ学校の制服を着た女の子が、小さく地団駄を踏んでいた。だが、彼女の怒りを気に留める人は誰もおらず、御津雪で下車した人々は目もくれていなかった。
 満員電車の苦痛に耐えた勇も彼女を気にすることわけでもなく無視する。別のクラスだけれど同じ学年だったような、という曖昧な記憶を引っ張り出すことはできたが、それ以上のことは思い出せない。確か名前は真帆だったが、苗字は覚えていない。
 目当ての飲み物を購入した勇は、真帆の存在を忘れて至福の一時を楽しむ。喉から食道へとゆっくり温もりが流れていく感覚を確かめる。そして幸福と安堵を混ぜた息をゆっくりと吐き出して白くなった息が漂い流れていくのを見て楽しむ。
 だが、朝の幸せに陶酔することができなかった。勇の視界の端に、ずっと真帆の姿が映っていたからだ。
 電車が行ってしまってしばらく時間が経ったというのに、真帆はずっと線路の先を鋭い視線で見つめている。振り上げた腕をどこに下ろせばいいのか分からないという風に見えた。きつく噤んだ口が彼女の機嫌の悪さを表しているようだった。
 真帆の口振りから考えて、満員電車に乗るのは初めてだったのだろう。おそらく下車する人々の勢いに飲み込まれて乗車待機列の最後に並ぶ羽目になり、自分が乗るよりも先に締め出されてしまった、といったところだろうか。
 三年前も自分もそんな経験をしたものだ、と勇は飲み物を口にしながら考えていた。だが、残念ながらそれが朝のラッシュというもので、勝者と敗者というものが出る一つの戦場なのだ。満員電車での身の振り方を知らなかった、という不利があったとて、残念ながらこの時間帯の乗客は同情なんてしてくれない。
「ったく……」
 同じく勇も真帆のことを無視して離れた乗車目標地点に並ぼうとしたのだが、もうしばらく次の電車が来るまで時間があったので、気まぐれを起こしてみることにした。
「……なぁ」
「な、何よ……」
 真帆に話しかけると、刺々しさを孕んだ声が返ってきた。相当ご立腹のようだ。
「あんたが乗る前に締め出された、って具合だろ、どうせ」
「……あなたには関係ないわよ」
「まぁ隠そうとしても、あんたの態度を見てれば大体分かるけどね」
「だ……だったら何だっていうのよ!」
 羞恥を隠すために真帆は顔を赤くしつつ半眼でこちらを睨んでくる。
「止むを得ず電車から降りざるを得ない場合は、扉の近くで待ってればいいんだ。そうすりゃ締め出される心配もない」
「そ、そんなことしたら並んでいる人の邪魔になるじゃない!」
「人を思いやってやれるのはいいことかもしれないけど、誰もあんたに感謝なんてしてないぞ。邪魔だと思われようが、ドア付近のポジションをしっかり取っておかないと今のあんたみたいなことになる」
「で、でも……」
「文句を言われようが無視しておきゃいい。そんな奴いるとも思えないけどな」
 尚も反論してくる真帆に勇は畳み掛けるようにして言う。赤の他人の邪魔になる、という心配をしてやれるのは素晴らしいが、貴重な朝の時間を犠牲にしてまで堅持しておくようなものでもないのだ。
「……そ、そういうあなただって、暢気にそんなものを飲んでるんだから私と同じように締め出されたんでしょう? そんな偉そうなこと言われる筋合いはないわ!」
「おい、一緒にするなよ。俺はこのつぶつぶクリーミーポタージュスープを飲むために降りただけだ。前から四つ目の車両の二つ目の扉。ここが一番自動販売機に近いんだよ」
「そんな言い訳……」
「言い訳じゃない。俺の朝の貴重な一時を馬鹿にするようなことは許さんからな」
 勇が僅かに凄むと、真帆はごにょごにょと呟きそして黙り込んでしまった。
 それにしても、勇は四年間同じ時間帯、同じ電車に乗って通学しているが、彼女の姿を学校以外で見たことがないような気がする。
「あんたさ、普段この路線使ってないんじゃないか? 通学の途中で見たことないような気がするけど」
 真帆の苗字は知らない勇には、話したこともない女の子の名前を呼び捨てにする度胸はなかったので、少しぶっきらぼうな言い方で質問する。
「……あなた、電車の中の生徒の顔をいちいち記憶してるの?」
「そんなわけないだろ。記憶違いなら別にそれでいいんだけど、毎朝満員電車なのに、今日初めて乗りました、っていう怒り方をしてたからな」
 真帆は値踏みするように勇を見つめ、黙り込んでしまう。その無言が、勇の推測が正しいということを告げていた。
「……普段はこんな路線使わないわ。ただ、その……時間に余裕があったし、たまには気分を変えて違う電車を使ってみようと思っただけよっ!」
「朝から優雅なことしてるんだな」
「い、いいじゃない別に! そんな気分ってだけだったんだから!」
「わ、分かったよ……」
 今度は逆に勇が真帆の迫力の気圧された。
 そうこうしている内に、次の電車が手前の駅を出たというアナウンスが流れた。逆に不機嫌を煽るような形になってしまい、真帆は怒った様子でそっぽを向いてしまった。余計なことをしてしまったな、と少し自分の気まぐれを後悔しつつ、勇は空になった缶を捨ててその場から離れようとした。実は、この自動販売機の前の車両が最も混雑しており、後ろの車両へ回った方が幾らか人混みが緩和されているのだ。
 離れる前に勇はじっと真帆の横顔を眺める。これ以上気を回す必要はないのだが、無知な真帆が人の波に圧迫されて苦しむのを放っておくのも少し心が痛むので、アドバイスをしてやることにした。これが最後だからな、と勇は何故か自分にそんな言い訳をした。
「……少し後ろの車両に回った方がいい。学園前駅までその車両が一番混むぞ。後ろの方が多少混雑が楽になる」
「……え?」
「信じるも信じないも勝手だけど、別に騙そうなんて思ってない。それだけだ」
 そう言い残して勇はホームの後ろへ移動する。親切心を表に出したことが恥ずかしくなって、逃げるように足早になった。
 ちらりと後方を一瞥すると、真帆は列から離れないままこちらを睨むように見ていた。ここまで同情されるのはプライドが許さないのだろうか。強情に我を通すというのであれば、これ以上はもう面倒は見切れない、と勇は小さく舌打ちをして前を向いた。
 そして最後尾付近の車両の乗車待機列に並んで電車の到着をじっと待つ。と、その時不意に自分の後ろに並ぶ気配を感じて、勇は振り返った。
 そこには、少しだけ顔を赤らめて視線を逸らす真帆の姿があった。
 堪えきれずに笑いを漏らした勇に対し、「なによ!」と真帆が怒りを露にしたのだった。