定食屋での一幕

「いらっしゃいませ!」
「あ……禁煙席、空いてますか?」
「禁煙席は奥のフロアになります、空いてるお席へどうぞ」
 やや年配の女性店員に対応され、勇は煙草の煙から逃げるように奥のフロアを目指す。今日は昼休みの会社員や郵便配達員の姿が多く、客の人数に比例して入り口付近に充満する紫煙も濃いように思えた。 
 奥の禁煙スペースは幾つも空席がある。今までは座敷席を好んで使っていた勇だったが、ここ最近は更にその奥のテーブル席を使うようにしている。というのも、
(今日もいた……)
 その隅のテーブル席で、入り口と対面に位置する席で静かに読書をしている女の子の姿を探すようになったからだ。
 彼女の名前は知らない。勇と同じ大学生くらいに見えるが、年齢も分からない。勇が知っている情報といえば、定食が運ばれてくるまでは静かに文庫本を読み、食事が目の前に運ばれてきたら黙々と食べ続ける、ということくらいだった。
 勇は、おそらく他者から見ればぎこちなさは露骨に表れているのかもしれないが、自分なりに自然を装って隣のテーブルの席に着いた。そしてコートを脱ぎ、財布と携帯電話をジーンズのポケットから出した後、メニューを眺めつつ隣の彼女を一瞥する。
 理知的を思わせる小さな透明な眼鏡の奥で、活字を追うやや切れ長の目が規則的に上下に動いている。透き通るような色をした唇はふっくらとしていて、鼻筋はすっと通っている。その横顔は見惚れてしまうくらいに綺麗だ。
 完全に一目惚れしてるな、という自覚はあった。食事と取るためではなく、彼女に会うためにこの店を訪れたのも一度や二度ではない。これ以上エスカレートするようなら、ストーカーと間違われてしまいそうだ。
 と、気付いたらじっと彼女のことを見ていることに気付き、勇は慌ててメニューに視線を落とした。その時、ちょうど良く先程の女性店員が温かなおしぼりと熱々のお茶を持って注文を聞きにやってきた。
「ご注文お決まりでしょうか?」
「え、っと……から揚げ定食をチリソースがけでお願いします。ご飯は、大盛りで」
「はい、から揚げ定食のチリソース、ご飯は大盛りですね。冷たいお茶はご利用でしょうか?」
「じゃあ、お願いします」
「はい、それでは少々お待ちください」
 営業スマイルを残して店員は厨房の方へオーダーを通しに行った。今度は意識的に彼女の方を見ないようにして、勇は熱いお茶に口を付ける。冷え切った体にお茶の温もりがゆっくりと広がっていくようだった。その後、店員は定食よりも先に冷えたお茶を運んできてくれた。
 手持ち無沙汰になった勇は、携帯電話を開いて過去のメールを流し読みしながら時間を潰す。しかし、それにすぐに飽きて携帯電話を閉じると、ちょうど店員が眼鏡の彼女にから揚げ定食を運びにやってきた。白飯、味噌汁、から揚げ、サラダ、煮物、漬物という栄養バランスの取れたこの店自慢の定食だ。
「お待たせしました、から揚げ定食でございます」
 店員が軽く一礼して下がると、眼鏡の彼女は読んでいた本を閉じてテーブル箸を取る。隣に座る人に失礼をかけないように箸を水平に持ち、上下に引っ張って二つに割る。そして手を合わせると、小さな声で「いただきます」と言い、食事を始めた。
 勇はわざと椅子の背もたれに深く寄りかかり、眼鏡の彼女のやや後方から眺める形で密かに食事風景を観察する。
 何度か近くに座って分かったことなのだが、彼女の食べ方は一言で言うと気持ちがいい。
 大食漢、というわけではないが、彼女は黙々と箸を動かして食べ続ける。一定の分量、一定の咀嚼、一定のペース。一つのおかずに偏るのではなく、順番に少しずつ箸を付けていくので、皿の上の料理は一定のスピードで彼女の口に運ばれていく。綿密な計算をしているのかどうかは知らないが、複数の皿が空になるのはほぼ同時なのだ。
 食べ盛りの男とは違い、彼女は決して一口に沢山を頬張るような失礼な真似はしない。迷い箸や寄せ箸、刺し箸もせず、細かな所作に気品というか上品さが感じられる。
 視線を固定させてしまっていることに気付かず、勇は茫然と彼女の食事風景を眺める。あまり大きな変化はないのだが、表情がほんの僅かだけ綻んでいるのが分かった。美少女と言っても過言ではない容姿をした彼女の好物がから揚げ定食というのは少しアンバランスかもしれないが、体型を気にしがちな女の子が量を気にせず美味しそうに食事を取っているのは見ているこちらも気分が良くなった。
 そんな観察を続けていると、勇の腹が空腹を訴えて小さく音を立てた。こちらが頼んだから揚げ定食はまだできないのだろうか、と厨房の方へ目を向けた。
 しばらく壁に掛かっている広告や、宴会キャンペーンの告知を眺めて時間を潰す。左手で頬杖を付いて料理の到着を待ち、勇がもう一度隣の彼女を一瞥した時だった。
「……っ! こほっ……! けほっ!」
 急に眼鏡の彼女が苦しそうにむせかえった。左手で胸元に手を当て、右手で持っていた箸を置きお茶が入っていた湯のみに手を伸ばしていた。変に飲み込んでしまったのかは分からないが、彼女にとっては珍しい。
 だが、彼女の湯のみは既に空だった。更に激しく咽る彼女の顔が赤くなり、苦しそうに歪む。
 どうすべきだろう、と勇は一瞬判断に迷った。店員は近くを歩いておらず茶のお代わりを頼むには時間が掛かる。だが、他人である自分が彼女の代わりに店員を呼んでしまったらお節介だと思われたりしないだろうか。それで嫌われるなんてことに発展する可能性もあり得なくもないのでは。
 と、彼女に嫌悪されることを恐れた勇だったが、辛そうに咳を繰り返す彼女を見て迷いが吹っ切れた。店員を呼ぶよりも、自分のテーブルにある茶を渡した方が早い。
「あ、あの、これ飲んで! 僕はまだ口付けてないから!」
 勇は先程店員が持ってきた冷たいお茶を差し出した。一瞬眼鏡の彼女は遠慮するように手を振っていたが、それでも息苦しさに我慢し切れなくなったのかグラスを手に取ってゆっくりと飲んだ。
 それから呼吸を整えながら彼女はお茶を飲み、グラスが空になる頃にはすっかり咳も収まっていた。
「だ、大丈夫……?」
 初めて話し掛けたという事を思い出して勇はおそるおそる訊く。落ち着きを取り戻した彼女はぺこりと頭を下げた。
「お騒がせしてすみません。お茶、ありがとうございました」
「いや、別に……とにかく、よかったね」
「新しいお茶を持ってきてもらいます。少し待っててください」
「あ、いいよいいよ。これから僕が頼んだから揚げ定食も来るだろうから」
「何から何まで本当にすみません」
 彼女の丁寧な口調に、逆にこちらが何か悪いことをしたような気分になって勇は萎縮してしまう。ただ、初めて彼女の声を耳にすることができた事に、同時に感動を覚えた。
 しかし、数秒の沈黙が挟まった瞬間、話題が途切れたことに気付いた勇は慌てて話題を探す。せっかく自然に話しかけることができたのだ、この機会を逃してしまうのは勿体ない。
「そ、そういえばよくこの店には食べに来てるよね」
「はい。このお店にから揚げ定食が好きなんです。このメニューで五百五十円ですし、非常にコストパフォーマンスも高いです」
「そそ、そうだよね。ご飯と味噌汁もお代わり自由だし」
「さすがに私はお代わりをすることはありませんが」
「そそそ、そうだよね……」
 酷くぎこちない会話だと自覚しつつも、勇は大学の入学試験の時以上に頭を回転させて話題を掻き集める。そういえば砕けた言葉遣いをしてしまったが、相手はもしかしたら年上だったんじゃないだろうか、という不安はこの際思考の中から蹴り飛ばしておく。
「こ……ここにはよく来るの?」
「はい。これを……」
 彼女は隣の席に置いてあった、あまり女の子らしさを感じさせない青いバッグから長財布と取り出すと、その中から数枚のスタンプカードを取り出した。
「これって……」
 思わず勇が瞠目してしまったのは、その枚数だ。少なく見積もっても十枚はある。
 このスタンプカードは、この定食屋独自のものだ。昼の時間帯で提供している定食を一つ注文するとスタンプが一つ押される。そしてスタンプを八つ貯めると、好きな定食が一つだけ無料で食べられるのだ。から揚げ定食だけではなく、値段の高いチキンカツ定食や日替わり定食など、好きなものを自由に選ぶことができる。
 つまり、彼女は最低でも八十回はこの店の定食を食べたということだ。
 ただ、何故貯まったスタンプカードを使わずに保持しているのだろう。何か特別な理由でもあるのだろうか。
「す、すごい……けど、どうして使わないの?」
「いつも会計の時に出すのを忘れてしまうんです」
 どうやら特に深い理由はないようだった。
「……これを一枚どうぞ」
「へ……?」
 このスタンプカードを一杯にするには、一体何万円をこの店の昼食で使ったのだろう、と少し汚い思考を働かせていると、彼女がその一枚を勇に差し出した。
「せめてものお礼です。今日はお世話になったので」
「べ、別にこれをもらうようなことはしてないよ……」
 単純計算、一番安いから揚げ定食でスタンプを埋めたとしても、このカードには最低四千四百円分の価値があるということだ。そんな高価な価値があるものを、お茶を一杯分けてあげた、という行為の見返りとしてもらえうのは気が引けた。
「構いません。また貯めればいいだけですから」
「そ、そう……? じゃあその、ありがとう……」
 表情が変化したわけではないが、彼女の瞳の奥には一度決めたことは貫き通す、という信念の強さがあったような気がした。相手の好意を無下にするのも申し訳なく思い、勇はありがたく頂戴することにする。
 カードを受け取る時に、少しだけ彼女の指先が勇の手に触れた。冷たいお茶の入ったグラスを手にしていたからだろうか、細い彼女の指は少しだけ冷たかった。
「それでは、私はこれで失礼します。今日は本当にありがとうございました」
「あ、うん。スタンプカード、ありがとう……」
「では、また」
 短くそう言い残して、眼鏡の彼女は伝票を持って立ち上がると、バッグを肩に掛けてレジへ行ってしまった。いつも以上に心拍を刻む胸に手を当てながら、勇はぼんやりとその後ろ姿を見送った。そして彼女が見えなくなった後、今更になって名前を聞くのを忘れたことに勇は気付いた。
 体がふわふわと浮いているような気がした。いつか彼女と偶然にも話をすることができればいいな、なんて願望がこんな形で実現を果たしたことに、正直勇は未だに戸惑いを隠せなかった。
 けれど、話してみて少しだけ仲良くなれたような気がした。少なくとも悪い印象は与えなかった(と信じたい)はずだし、沢山の謎に包まれた彼女のことを知ることができたのは嬉しかった。
「……そういえば、また、って言ってたな」
 それに、別れ際に彼女は再会を期待させるような言葉を残していった。つまり、あくまで勝手な解釈の範疇を出ないが、またこの定食屋で勇と会うことを嫌がってはいないと判断してもいいような気がした。
「お待たせしました、から揚げ定食のチリソース、ご飯大盛りでございます」
 夢見心地を吹き飛ばすようなタイミングで、ようやく勇が注文したから揚げ定食が運ばれてきた。
 とりあえず食べるか。勇は割り箸を割り、大きなから揚げを一つ口に運んだ。
 今日のから揚げは、いつもよりも美味しいような気がした。