放課後お手伝いでの一幕

「こんなことなら、早く帰っておけばよかったな」
「そう言わなくてもいいんじゃない? ジュース奢ってくれるって言ってたよ?」
「ジュース一本に見合う仕事じゃないって……」
「どうせ暇だったんだから、いいじゃん。お互いにさ」
「まぁ……ね」
 愚痴を垂れ流す勇とは対照的に、隣を歩く真柴真希穂は嬉しそうに答える。貧乏くじを引かせられた立場だというのに、よく前向きに捉えられるな、と化学の実験器具が入った箱を運びながら勇は感心していた。
 七時間目の授業が終わり、傍のグラウンドでは野球部とアメフト部が猛々しい声を上げながら練習に励む。ホームルームが終わってから約一時間が経過しているため、帰宅する生徒の数はまばらだ。今なら下校のラッシュに巻き込まれることなく家に帰ることができるのだが、残念ながら勇と真希穂は厄介な仕事を手伝わされているため、まだ学校を後にすることができなかった。
 ホームルーム終了後、勇達はしばらく教室に残り歓談に耽っていた。というのも、中高一貫であるこの学校は生徒の数も膨大であり、授業が終わってすぐに帰ろうとすると生徒の波に飲み込まれることになってしまうのだ。そのため、時間を潰そう考えた勇達の男子グループ、真希穂達女子グループはわざと帰宅の時間を遅らせようとしたのである。
 だが、今日に限ってはそれが間違いだったと反省せざるを得ない。
 時間を忘れて勇と真希穂達は談笑に花を咲かせていたが、その時教室に化学の教師である篠原が訪れ、仕事を頼みにきたのである。
 それは、実験棟の化学実験室に器具を運んで欲しいという簡単な肉体労働だった。だが、器具が置いてある第三校舎は離れた位置にあるため、五分、十分で終わる仕事ではなく、その場の生徒達は全員難色を示した。だが、教師の頼みとあっては断ることもできず、男子グループ、女子グループから一人ずつ選出することになった。そして最も平和的な解決手段であるジャンケンによって、勇と真希穂が不幸に選ばれてしまったのだった。
 余談ではあるが、その時に勝ち残った男子と女子の態度は如実に異なっていた。女子グループは皆が真希穂を気遣い手伝いを申し出たのだが、それではジャンケンで負けた自分が卑怯な気がする、と言って断る、という何とも美しい友情話が展開されていた。だが、男子グループは勇に一言だけ激励の言葉を残し、余計な仕事を回されては堪らない、とさっさと帰ってしまったのだ。中学校から付き合ってきた悪友達が自分に優しく手を差し伸べるなんて、それこそ微粒子のレベルで存在するか否かという希望ではあったのだが、予想通りの結果に、勇は重たいため息を漏らすだけだった。
 本当に自分が危機的状況に陥った場合は、きっと助けにきてくれる。今回の不運は取るに足らないことであるから、友人達は冗談の範疇で行ったことなのだ。と、そう思うことにする。きっとそうに違いない、と半ば言い聞かせるような形でそう願う。
 ただ、幸いだったのは同じ手伝いをしてくれたのが真希穂であるということだ。快活な性格をする彼女と一緒にいても沈黙が重くなることはない。そもそも、彼女が持つ話題が豊富なため、無言になることがなかった。もしも他の女の子がジャンケンに負けていたら、今頃更に陰鬱な気持ちで手伝いを行っていなければならなかっただろう。
「そんなに重たくない荷物ばっかりで助かるよね」
「俺はそうだけど、真柴は大変だったりしないか?」
「このくらい全然平気だよ。けど、数が多いけどね」
「無理せずやろうぜ。腰とかぶっ壊したら洒落にならんしな」
「だねー」
 何気ないやり取りをしながら、二人は両手でダンボールを抱えて実験器具を運ぶ。
 その時、グラウンドの方から耳を劈くような怒声が聞こえた。驚いて目をやると、ノックを行っている野球部顧問が、ミスをした生徒を怒鳴っているようだ。
 思わず勇は足を止めて、しばらく成り行きを見守る。ボールを取り損ねた生徒は頭を下げると、ノックは何事もなく再開される。
「どうしたの?」
「あ、いや……悪い。行こうか」
 お茶を濁すように勇は先を促した。ただ、急速に胸の中でもやもやとした嫌な気分が広がっていく。
「……あのさ、人が怒ったり怒鳴ったりするのはどうしてなんだろうな?」
「どうしたの、急に?」
 整理する前にそのまま疑問をぶつけたせいで、真希穂は困惑しているようだった。
「わ、悪い……全然頭で整理しないまま質問しちまった」
 勇は一度頭をリセットして、自分の抱いた疑問を分かりやすく並べ替えていく。
「さっき野球部の部員が監督に怒鳴られてたよな? ノックの時に落球したみたいだけどさ、あれって怒ったりする必要あるのかな?」
「試合であんなミスしたら良くないから、じゃないのかな? 私はずっと見てたわけじゃないけど、ぼーっとしてたりしてたんじゃない?」
「俺もさ、ふざけてたりとかしてる人には怒ってもいいと思うんだよ。けど、ミスをする人って必ずしもそういう人ばっかりじゃないだろ? 自分なりに集中して、全力で取り組んだ結果、ミスしちゃったって人もいると思うんだ」
「だね。人間、全部完璧って人はいないわけだし」
 こちらの言わんとしていることが少しずつ通じているらしく、真希穂も首肯する。
「もっと言うとさ、例えば数学とかも公式とか覚えても問題によっては解法が分からなくて解けなくなる時ってあるだろ? けど、それは仕方がないことっていうかさ……うーん、上手く言えないけど、それは怒るようなことじゃないと思うんだよな」
「あー……あはは、何か耳が痛くなってきたんだけど……」
「いや、別に真柴のことを言ってるわけじゃないから誤解しないでくれな」
 真希穂の表情に段々苦笑いが浮かび始めた。あくまで一例を挙げただけなのだが、どうやら真希穂に合致するような内容だったらしい。
「けど、何度言っても良くならない、とかそういう人には怒るのも必要なんじゃない?」
「そりゃ、まぁそうなんだ。けど真面目にやって人ってさ、ミスが分かったっていう時点で反省とかするだろ。次はこうしないようにしなきゃ、って意識するんだからさ。それを怒ったところで逆効果なんじゃないか?」
「でも先生が全員、私達が真面目にやってるのか、怠けてやってるのかなんて見分けがつかないんじゃない?」
「ま、そうなんだけどね……。俺の言ってることって間違ってるかな?」
「うーん……」
 しばらく考え込んだ真希穂の歩調が少しだけ遅くなる。先を行きそうになった勇は、真希穂に合わせて歩幅を小さくした。
「怒鳴ったりっていうのは、今後同じミスを繰り返さないように前もって意識付けをさせるって意味もあるんじゃないかな? 同じような状況になった時に、失敗を思い出すことができるように、さ」
「あー……うん、まぁそうだけどなぁ……」
「あ、やっぱ私の答えじゃ納得できない?」
 真希穂は勇の顔を覗き込んでくる。間違ったことを言っているわけではない、というのは理解できるのだが、どうにも心が晴れるには届かない。
「難しい問題だよね。結局勇が言いたいのって、褒められて伸びるタイプと叱られて伸びるタイプの人がいるってことでしょ?」
「平たく言えばそうなる、かな……」
「うーん……人それぞれ、って言っちゃうとそれまでだよねー」
 苦笑いを浮かべて、真希穂は先ほど怒鳴り声を上げていた野球部顧問に目をやる。
「俺はさ、ふざけてたり不真面目な人には怒るのも仕方ないと思うんだよ。けど、真面目にやってたけど失敗やミスしちゃった人には怒らない方がいいと思うんだよな。やっぱり怒られた人には少なからず苦手意識なもの持つじゃん? 時間が経っても、怒られたって記憶はそうそう忘れられないし」
「軽く注意された、程度だったらあんまり気にしないけど、結構ガミガミやられたら長い間覚えてるもんだよね」
「気持ち切り替えたりとか、みんながみんな上手くできるわけじゃないしさ。三十分前に怒られた先生に分からない問題を質問しに行くとか難しいだろ? また怒られるんじゃないか、って不安になって行きたくなくなるんだよな」
「その気持ちは分かるかも。小学校の時は音楽の先生がすごく怒る人で、なんかあんまり好きじゃなかったなー」
「それそれ。怒られるとさ、その先生のことが嫌いになったりしないか?」
「うん、あるある。悪いのがこっちだとしても、なんか嫌いになっちゃうよね」
 ぴったりと意見が一致したらしく、真希穂は嬉しそうな笑顔を見せた。
「今は私達は高校生だけど、これから就職とかして上司がガミガミ怒るようなタイプだったら困るよねー」
「そうだなぁ。結局のところ、そういう人って部下からも好かれなくなるし、どうにも俺には怒るっていうメリットが見つからないよ。すっげー損してるだけにしか思えないな」
「分かってるからそこまで怒らなくてもいいじゃん、って言い返したくなるよね。そんなことしたらもっと怒られるんだろうけどさ」
「俺みたいに考えてる人が沢山いてくれればいいんだけどさー……」
 思わず勇はため息を付いてしまった。真希穂は慰めるように、まぁいいことあるって、と言葉を掛けてくれた。
「……ところで、何で急にそんなこと訊いてきたの?」
「たまたま怒鳴り声が聞こえてきたから、ってのが理由だけどさ。俺さ、昔から怒られるのが嫌いだったから、なるべく怒られたりしないようにしてきたんだよ。けど、いざ何かで怒られた時って結構気にするタイプなんだ」
「分かる分かる。怒られてもすぐにケロっとしてる人って羨ましいよね」
「是非極意を伝授して欲しいもんだぜ、そういう人にはよ」
「あ、でもさ、スポーツとかだったら熱血指導とかで効果があるんじゃない? そんな野球の監督とかテレビで見たことあるよ? さすがに暴力はだめだけど、気合だー、ガッツーだ、とかってのは長期的に見たらいいんじゃないかな?」
「うーん……」
 再びフライの捕球練習で落球してしまったのか、顧問の怒鳴り声がグラウンドに響いた。それを見た真希穂が新しい捉え方を提示する。だが、勇は渋面を作るだけで同意することはしなかった。
「俺さ、テニススクールに通ってんだけどさ、もしもコーチがあの顧問みたいに怒鳴りまくる人だったら通うのやめてると思うぞ」
「怒られるのが苦手だから?」
「それもあるし、テニスっていうスポーツだからかもしれないけどさ。失敗して怒られても、できないことはできないんだからしょうがねーだろ、って思うな、多分」
「へー、そういうものなんだね。私はあんまりスポーツしないからよく分かんないけど」
「一流のプロになるんだったら、怒られたくらいでへこたれるメンタルを鍛えないといけないのかもしれないけど、別に俺はプロ目指してるわけじゃないしなぁ……」
「ままならないねー、世の中色々と」
 真希穂の笑顔が陰り、何となく雰囲気が重苦しくなったような気がした。こんな暗くなるような話題になるとは思ってもみなかった。
「や、あんまり深く考え込まないでくれよ。俺がそうってだけだからよ」
「でも、できれば解決したくない? 怒るような人ばっかりの世の中なんて嫌だしさ」
「解決策なんてあんのかな? さっき真柴が言ってたけど、人それぞれってやつだと思うし、どうにもならないような気がするぞ」
「いやいや、私達が歴史に名を刻むくらいのことをやっちゃうくらいの意気込みでさ!」
 と、鼻息を荒くしてやる気に満ちた表情を浮かべる真希穂だったが、それが徐々に萎んでいくのが見て取れた。そう簡単に答えが見つかるような問題ではないのだ。
「世の中っていうのは……社会っていうのは、世知辛いもんだね……やってらんなくなってきたよ!」
「やさぐれんなよ……」
「でも、結局私達が怒られ慣れるってことしか方法がなくなっちゃうじゃん。それって我慢とかストレスを溜め込むみたいで嫌だけどなー」
「そりゃそうなんだけど……」
 地球上に住む全人類の意識を変革させるような、そんな世界を支配し得る力を持った洗脳能力を持った人間でもなければ、勇と真希穂が懸念する事態が時を待たずして解決することはない。真希穂の言う通り、やはり自分達の精神力を鍛えるしか怒られた際に平穏を保つ術はないのかもしれない。
「世界も人ももっと優しくなればいいのにね」
「その優しさ、ってのが人によって違うから困ってんだよなぁ」
「じゃあ前もって言うようにしよう。自分は褒められて伸びるタイプなので、怒らないでください。怒られたらあなたのこと嫌いになります、みたいな」
「怒られる怒られない以前に、変な人だと思われるぞ……」
 それから実験棟に着くまで、勇と真希穂の議論は尽きることはなかった。
 けれど勿論答えが出ることはなく、人間は難しい生き物だ、という酷く曖昧な結論でひとまずの結論に落ち着いたのだった。